人生100年時代のM&A物語

49才の時父親が創業した会社を、父親在命中にM&Aで売却。その後、売却益で第2創業。売却決断実践から20年の経営者人生を綴ります。

本契約後社員の動揺を土下座で鎮める 後編

前編からの続きです。


売却の本契約が終了すれば、譲渡側企業社員へのM&A発表が控えています。M&Aは秘密保持で始まり、秘密保持で終了するため、会社売却による経営者交替は突然社員に発表されることになるのです。


社員への発表は、契約締結から十日後の朝礼時と決まりました。社員発表には、仲介アドバイザー側二名、買収企業側から五名が来社し、まず私から状況説明を行い、アドバイザーからの説明、最後に買収企業側から新社長の紹介という形式で朝礼が進み、平穏無事に社員への発表を終了させることができました。


そこにはざわめきや動揺もありませんでした。私の実践したM&Aは社員を一人も解雇することなく、社員の生計を維持継続する経営戦略であったからです。


経営者は自らが経営者の座から離れると、社員が困惑するものと思っているかもしれません。社員も案外シビアなもので、経営者がだれであろうとあまり問題にしていないのかもしれません。


解雇されることなく給与が保証され、さらには経営者の交替によって待遇改善が期待できるものであれば、社員はそれでよしとするのかもしれません。


しかし、問題もありました。


私が経営者の座を退き、譲り受け側企業から派遣された新社長のサポーターとしての立場に徹しようとしたため、社員に発表した後は自ら口だしするのを止め、「双頭の鷲の戒め」を貫こうとしたことが裏目に出てしまいました。


私が急にリーダーシップを取ることを止め、社員への指導や管理に口だししなくなったことと、中間管理職の資質に問題があることが暴露されることで指示系統に乱れが生じ、ベテラン社員の退職騒ぎが起きるなど、少なからず社員の間にも動揺が見え隠れし始めたのです。


この事態を収拾するため、ある日朝礼のときに、私は社員全員の前で工場の冷たいコンクリートに自らの額を押し当てて土下座をしました。


この土下座にはさまざまな意味がこめられていましたが、口ではなくプライドを完全に捨てて、いままで社員に見せたことのない態度で、全社員に協力を要請したのです。プライドを捨て去って土下座をしている私の姿を見て、朝礼に参加していた妻の目に、涙が浮かんでいるのを見過すことはありませんでした。


M&Aの舞台裏には、経営者にとってさまざまな波乱と忍耐があります。経営者には、M&Aの実務だけでは計り知れない対応が求められ、その引き継ぎは決して一筋縄ではいかないことも知っておいてほしいのです。


しかし、波乱や忍耐は一時的なもので、その壁を乗り越えればハッピーリタイアメントという優雅な人生が待ち受けているのです。