人生100年時代のM&A物語

49才の時父親が創業した会社を、父親在命中にM&Aで売却。その後、売却益で第2創業。売却決断実践から20年の経営者人生を綴ります。

ぬるま湯に浸ってしまったわが社の衰退期を悟る その1

私の経営していた会社は、一九六三年(昭和三八年)四月の設立でした。私がまだ小学生の頃で、父が初代社長として創業した会社です。


現在、株式会社を設立するためには、発起人一名、株主一名でも登記が可能ですが、当時は、発起人、株主ともに七名を必要とした時代でした。資本金三百万円での株式会社設立でしたが、父は七名の株主を揃えるのにずいぶん苦労したようです。しかし、創業から三十八年後にM&Aを進めようとしたとき、この同族以外の株主の存在が大きな障害としてたちはだかることになったのです。


私の経営していた会社の業種はリネンサプライ業です。リネンサプライとは、繊維製品をリースし、選択加工を繰り返して行う事業です。主な顧客は、病院等の医療機関が大半を占めていました。かつては、病院に入院する祭は、患者が寝具も自前で医療機関に持ち込むことが当たり前の時代でした。やがて、病院が寝具を準備し、その代金は社会保険点数から支払われる仕組みに法律改定が行われました。


 改定当時の社会保険点数には「基準看護」「基準給食」「基準寝具」と言う三つの基準保険点数がありました。この三つのうち、私の会社は病院寝具を取り扱う「基準寝具」を主な収入源にして創業したわけです。


基準寝具の保険制度は厚生労働省管轄の事業であり、許認可を必要とする規則に守られた事業でした。社会保険適用というのは、入院の寝具代を国が負担してくれるという制度です。入院患者が自宅から寝具を持ち込む手間や暇がかからず、しかもその代金は国が負担してくれるというのであれば、だれもが利用するのはいうまでもありません。このようなわけで、全国の医療機関がこぞって病院寝具のリースを採用するようになったのです。


会社が発展期に入った頃、私は亜細亜大学経営学部を卒業し、いったん東京都内の旅行会社に入社しました。海外旅行の添乗員をはじめ、台湾や香港の現地旅行の手配を行なうツアーオペレーターなどを任され、旅行業界に身を投じていました。この時期、私の実家の会社は、義兄(姉の夫)が工場長として采配をふるっており、将来的には姉夫婦が事業を承継する段取りになっていました。しかしながら、義兄が姉と離婚するに至って、急きょ私が呼び戻されることになり、一九八四年(昭和五九年)九月に入社することになりました。


その2に続きます